仕事って「何」を中心に回っていますね。
「プレゼンの資料を作ってくれ」
「顧客とのスケジュールを調整してくれ」
「給与処理システムを構築してくれ」
全部「何をしてくれ」という「何」を中心に回っています。
しかし物事は「何」だけで成り立っているわけではありません。
「何」の部分を理解して作ったら、上司から「こういうのじゃないんだよね」とか、
「なんでこんな作り方したの」とか、そういうすれ違いを経験したことは誰にでもあるはずです。
ある物事(つまり「何」)は、その物事に特徴的な性質は持つものの、
その物事が実際にどのような意味を持つかは、環境や文脈に依存します。
(賞味期限切れの鮭おにぎりは、賞味期限の切れた鮭のおにぎり、という揺るがない性質を持つ。
しかし、それが日常のコンビニの棚に置かれるか、3日間何も食べていない被災地の人の前に置かれるかでは意味が全く異なる。」
そして、すべての人間は違う個性と価値観を持ち、異なった環境を生きてきた。
同じ物事を見ても異なる意味をそこに見るのは当然である。
厳密な意味において、物事の意味を自分と同じように捉えている人間はいない。
「何」の共有とは、せいぜい物事の「ラベル」の共有程度である。
(そのくらいに思っていたほうが過剰な期待をせずにすむ。)
こういうとき、「何」のほかに「なぜ」と「どのように」を言語化し、確認するとよい。
あらゆる「何」は「なぜ」と「どのように」から切り離せないからだ。
「先日の会議の議事録をまとめておいてくれ」
これは「何」の部分だ。
これしか言われなかったら、通常であれば、決まったいつも通りのやり方で仕事は済む。
「なぜ」に当たるのは、あとで見直せるように、とか、参加者以外にも情報共有できるように、などだろう。
「どのように」に当たるのは、共有フォーマットにしたがって、というところか。
この場合、両者が「なぜ」「どのように」を共有しているから、「何」だけの共有でも齟齬がない。
(「なぜ」「どのように」がは言語化されないだけだ。しっかり存在している。)
しかし、この会議が視覚障害者とのものだったらどうだろう。
「なぜ」には、あとで視覚障害者の人も確認できるため、という内容が加わる。
「どのように」も、音声をそのままファイルにするとか、点字に起こすなど、異なったものが求められる。
このような場合、「なぜ」と「どのように」が言語化されていなければ、必ずトラブルが発生する。
いささか極端な例だが、原理的には、仕事でのすべてのやり取りはこの可能性をはらんでいる。
とすれば、トラブルを回避するためには、「なぜ」と「どのように」に対する感度を高めておくことだ。
たとえば、あなたが部下だったとする、上司から「何」の依頼が来たときに、
自分なりに「なぜ」と「どのように」を考える。そしてそれを上司に確認する。
何かを行う前に、いったん立ち止まって考える習慣が身に付く。
考えにズレがあれば、実際に行動を起こす前に修正できる。
(すべて上司に合わせるということではない。)
無駄な作業をせずにすむので、組織的な生産性も上がる。
あなたが上司だったら、部下に「何」を依頼するときに、
部下が「なぜ」と「どのように」をどのくらい理解しているか確認することが出来る。
部下に考えるきっかけを与えることが出来る。
場合によっては自分の説明能力を身に付けることにもなる。
(自分にとって当たり前のことは、説明しにくいことだからだ。)
日々の仕事は忙しいので、つねに3つのやり取りをしている時間はないかもしれない。
しかし、個々人がつねに「何」「なぜ」「どのように」を言語化するように努め、
気になったとき、それらをやり取りできるようにすれば、組織的な生産性は上がるだろう。
「何」「なぜ」「どのように」をつねに言語化しやりとりする、というのを、
組織の求めるコミュニケーション力の1つにしてもよいのではないかと思うくらいである。
こういうのは、平時からやっていないと、本当に必要な緊急時に出来ないのである。
わかりきっている、簡単にできることを平時に繰り返し行う。
それは、一流のアスリートがシンプルな基礎練習を繰り返すのと同じようなものなのだ。