萩生田文科大臣が、大学入試の英語民間試験について「初年度は精度向上期間。精度を高めるための期間」と言い、
それに対して高校生が「自分たちは実験台じゃないぞ。モルモットじゃないぞ」と抗議の声を上げたらしい。
このところ「まずやって見て、ダメなら考える」という言葉をよく耳にするが、萩生田氏の発言もまさにこれに当たる。
「やってみてダメなら考える」というのは、決して新しい言葉ではない。以前からある。
でも昔は「きちんと考えた上で」という前提の上で使われた言葉だ。
いろいろなケースを考えに考えたけど、どれが正解か(理屈で)決め切ることはできない。
だから、その時点で一番よいと思うことをやってみるしかない。
それでもダメだったら、また考えよう。
「やってみてダメなら考える」という言葉は、そういう意味で使われていた。
しかし、いま世の中で起っているのは、ちゃんと考えもせずとりあえずやってみる。
それで上手くいかなかったら、そこから考えばいいというものだ。
世の中全体で何かが起っているとき、その原因は個人レベルではないところにあると考えたほうが良い。
(出来事は個人単位で起こるからといって、個人を責めるだけでは問題は解決しないということだ。)
理由の1つは、世界を動かす基本原理が、冷戦崩壊以降、経済における利益追求となったからだろう。
効率的に利益を増大させるためには、どうしてもスピードが求められる。
(ちなみに、近代以前は宗教における「神」、近代以後は理性に基づく「正しさ」が世界の原理と、個人的に仮説を立ている。)
神や正しさは、立場によってさまざまなので、明確で単一な判断基準が作りにくい。
それに比べて、経済的な利益はシンプルだ。お金を数字で表し、その多寡を比べれば良い。
多ければ「良く」、少なければ「失敗」。当然、スピードが重視される。
そんな中、ゆっくり考えている時間など取れない。
だから「まずやってみて、それでダメなら考えよう」というスタイルが流行する。
仕方のないことなのだと思う。
スピードを合わせるということは、現在の資本主義社会に参加するということだ。
少なくとも、ビジネスのゲームに参加するのであれば、そのスピードに合わせないといけない。
しっかり考えていたら、ゲームは終わっていたというのであれば、意味がない。
しかしそのことは「まずやってみて、それでダメなら考える」というスタイルが、良いこと意味するわけではない。
いくつか懸念点を書いておく。
1、今後、日本は高齢化社会が進行する。その社会は、ゆっくりしたスピードを求めるはずだ。
あっという間にやって来る将来の社会が求めるものと、別の社会を作っているのではないか。
そのツケはいずれ払わされる危険がある。
2、「まずやってみて、それでダメなら考える」というのが、本当に効率が良いのか検証されていない。
流れに乗っていたらひどいこことになったというのは、歴史上何度も繰り返された悲劇だ。
3、しわ寄せは弱者の方に来る。今回の民間テストも、しわ寄せは文科省よりは学生、それも貧困な学生と、
ダメな時のしわ寄せは弱者の方に集まっていく。
4、「ダメなら考える」と本当にいえる人は少ない。おそらく多くの人は、失敗したら「自己責任」と迫られる。
もう1度チャレンジできる余裕のある人しか「まずやってみて、ダメなら考える」が使えない。
「まずやってみて、ダメなら終わり」という人たちが出てくる社会は危うい。
5、結果的に、考える力が育たない。まずやってみることが優先されれば、考える機会は確実に減る。
当然、考える力が身に付く機会がなくなる。結果的に、ダメなら考えることが出来る人も減る。
ダメだから考えようとしたけど、考えられない。だから、再び考えずにやってみることになる。
現在の社会で、スピードが前提とされていることは無視できない。
そんな中で、どのように仕事をすることがよいのか、これは困難な問いである。
急いで答えを求めるよりも、問い続けることが必要なのかも知れない。